アラビア語「塾」30周年記念パレスティナ巡礼紀行
2018年11月2日(月)- 8日目
執筆:Dr.イブ先生
エルサレムの普通で特別な金曜日
~ 檜先生と「アラビア語塾」のお弟子さんと共に過ごした1日 ~
「エベン・イェルシャルミאבן ירושלמית 」と呼ばれる赤みがかった乳白色の石の建物群が並び、 多種多様の装いで 堀の深い顔立ちの人々が行き交う。ユダヤ教、キリスト教、そしてイスラームの聖都であり、歴史を 背負った重層的な空気が覆う街。小綺麗な西の新市街、エスニックな匂いに満ちた東の街と旧市街とが分断されながらくっついて文化が交錯する地。ここを生活拠点にしてもう20年以上が経つ。それでも、ベン・グリオン空港から、あるいはテルアビブやイスラエルの他の都市からこのエルサレムに入るときは、いつもこの街の持ついくらか重い「特別」な空気を肌で感じる。この特別な空気は 風向きによって変わり、街角によって濃くなったり薄くなったりするが、その中で、住民がそれぞれ普通の生活を営んでいる 。大人は仕事に急ぎ、子供達は学校へ通う。男も女も市場やスーパーで買い出しをし、老いも若きもカフェでおしゃべりをする。黒装束の正統派のユダヤ教徒もミニスカートのお姉さんも立ち止まってスマホを操作する。
金曜日日没から土曜日の安息日(シャバット)にかけて、西エルサレム(あるいはユダヤ人地区)では、 街の様子はがらっと変わる。安息日の労働はご法度なので、飲食店、店舗、スーパー、銀行などほとんど全てが午後2時ごろに閉り、公共交通機関も日没1、2時間前くらいにじわじわと止まって行く。金曜日の日没に安息日入りのサイレンが鳴る頃には、街はシーンと静まり返る。ユダヤ教徒たちはシナゴーグに安息日のお祈りに行き、家庭では家族が安息日ディナーの席につき、安息日の祝福のフレーズが唱えられる 。
そんな特別な街の、ある金曜日(11月2日)、私は、パレスチナに修学旅行にいらっしゃった檜先生とお弟子さんたちとご一緒することになった。檜先生とは11年ぶりの再会だ。しかも、檜先生のご一行より前には、かつて檜先生を紹介してくれた縁結び立役者、「時間守れないADHD先生」さんもパレスチナ調査のために滞在中だった。慌ただしい普段の 金曜日は私にとって「特別な金曜日」となった。
檜先生とアラビア語塾とのご縁は、2004年に始まる。エルサレムでの10年余りのフィールドワークと研究そして日本語講師としての仕事に終止符を打って、東京に戻ってきたときのことだ。東京では非常勤の仕事と、友人たちが回してくれた仕事で食いつなぎながら、音大時代の友人の野方のアパートに居候させてもらっていた。逆カルチャーショックに襲われるときには、そのアパート に籠ってウンム・クルスームやサッバーハ・ファハリのアラブ歌謡を延々と聴き続けた。そして「やりかけたアラビア語に再挑戦するかな。イスラエルでやりきれなかったことを」と思い立ったのがことの始まり。早速、これまたご縁があって エルサレムで知り合った「時間守れないADHD先生」に相談すると、「イブさん、東京でアラビア語をやるんだったら、檜先生だよ」と一言。この魔法の一言で恐る恐る 「アラビア語塾」に電話をかけることにした。東京のアラビア語関係者は敵国イスラエル帰りの日本人難民(?!)を受け入れてくれるだろうか? イスラエルでの荒波(いや荒砂漠風?)ですっかり疑心暗鬼な性格になったものだとも思った。電話の向こうの檜先生は堅気に「いえいえ、お出でください」と最初のレッスンにお誘いくださった。その後、授業が終わったある日、おもむろに「これはイエメンのユダヤ人のジャンビーヤ」とアラビア語塾の財宝を見せてくださり、ヘブライ語に並ならぬ情熱を抱いていらっしゃることがわかった。檜先生からアラビア語を教えていただき、ヘブライ語の手習いをご一緒することになった。
さて、東京からいらっしゃった檜先生とお弟子さんたちをエルサレムのどちらへお連れするか。パレスチナの方はツアーで回っておられ、東エルサレムの名門ホテルに滞在される。私が普段の生活しているユダヤ人側の西エルサムをご案内するのが一番自然な成り行きかなと思えたが、ちょっと問題なのは金曜日のエルサレムは午後2時、3時には全ては閉まってしまうことだった。一つ、二つの案を檜先生にお伝えした。死海文書もあるイスラエル博物館を訪ねて、食事は、西エルサレムのお昼をマハネ・イェフダ市場で食べるか。でも博物館から市場までどう行くか。タクシーにするか、それとも?でも夕食はどうしようか。西エルサレムでは金曜日の夜もやっているレストランは「カシェル」(ユダヤ人のややこしい食事規定に乗っ取った食品や食事)ではなく、それなりのお値段のわずかな レストランの選択肢の中から選ばなくてはならない。しかも予約でいっぱいかも。東エルサレムでもいいのだが、移動はどうするか?と堂々巡りに陥ってしまったのだが、ふとみなさんがノッくだされば、拙宅でどうかと考えた。日本からのお客様が大好きな双子の子供達も喜ぶだろう。金曜日の混んだレストランよりもゆっくりして良いかもしれない。
というわけで、朝、東エルサレムのホテルへ車で行って[*1] 、そこで、タクシーと車に別れて、イスラエル博物館へ向かうことになる。タクシーは檜先生たちを乗せてさーと出て行ったが、私の方は、車の方向を変えるのに時間がかかり、その上、ホテルの正面玄関で前の車が出発するのをしばし待つ。どうも庭の水やりのホースがタイヤに挟まったらしく、庭師とカタコトアラビア語で話しながら車を右へ左へと動かす。もたもたしながらの出発となった。なんともゆるい観光になりそうな予感がした。
*1 PS今回の檜先生ご一行のパレスチナ修学旅行を前に、先生は「要り用のものがあったらお申し付けください」と声をかけてくださった。で、ついつい甘えて食べ物や文房具などをちゃかちゃかインターネット注文して持ってきていただいた。その品々を車に積んでからの出発でした。ご一行の方にもお力をいただいき本当にありがとうございました。
イスラエル博物館への道は、エルサレムで最も整備された大きな道で、クネセトを右に仰ぎ、前方には内務省、外務省、総務省などの政府機関が並ぶ。科学博物館、聖書博物館も近くにある。皆様を「霞ヶ関」にお連れした感じだったが、私にとっては週に何度も通る普通の道。イスラエル博物館も子供達がアートクラブに通っていることもあって、今、私にとって馴染みのある場所だ。
みなさんとゆっくりお話をしながら、ぶらりぶらりと向かったのはユダヤ文化のコーナー。世界各国のコミュニティのユダヤ文化、ユダヤの儀礼、生活に関わる品々に巡り会える。ユダヤの信仰が確固と表象されているが、それを各地域の美的で芸術的なセンスや装飾が彩っている。 何度となく訪れたところだが、思い思いに足を止めて、ゆったりとお話ししながら見ていった。これまで子供のアートの先生の話、シナゴーグの人たちから教えてもらったこと、ユダヤ人との生活やユダヤ文化の研究で触れてきたことなどをざっくばらんに話したりもさせてもらった。内装がほとんどそのまま再現されたイタリアのシナゴーグやインドのコーチン(コーチ)のシナゴーグの中に入るのはいつもワクワクする。来る度ごとに同行のお仲間と互いに感想を述べたり、新しい小さな発見をしたりできるから。イタリアのこれぞとデコレートされたヨーロッパの装飾のあとに、コーチンの朽ちた木造りのシナゴーグに入るとホッとするのは、やっぱり自分が東洋人のせいだろうか。地域文化の中でユダヤの精神たるトーラーの棚やヘブライ文字を皆さんと確認し合う。
静かなクライマックスは、檜先生があるガラスのショーウインドウで立ち止まられ、私たちがそこへ何となく吸い寄せられて歩み寄った時のこと。檜先生は、「ほら、これ、イエメンのユダヤ人のジャンビーヤ。ユダヤ人のものは先が丸くなっている」と話してくださった。檜先生所蔵のジャンビーヤもこの先が丸くなったものだそうだ。ユダヤ人たちがイスラエルに移住するとき、イエメンで財産を売り払い、それが古道具屋で売られ、東京のアラビア語塾に渡ったのだろうとのこと。
そしてそろそろお土産探しにとミュージアムショップに移動した。イスラエル博物館のショップはちょっとお高いがなかなかの品々が揃っている。東急ハンズにあるような外国製のアイデア商品などもある。皆さん、思い思いに親しい人へのお土産を探しておられた。
これからマハネ・イェフダ市場に行くにはタクシーか、歩いてか?と私の方は優柔不断になってしまっていた。これから歩くことになれば、やっぱり一服したほうが良い。カフェテリアでお茶をしようということになった。注文のレジには顔なじみのお姉さんがいた。ガラス張りのテラスに席をとって、お菓子をつついたり、飲み物を飲んだりしているといい感じにおしゃべりが進んだ。子供の話から、イスラエルの生殖治療、出産事情、教育事情に話が展開していった。「子どもは最大の宝」というイスラエルの社会的・宗教的背景、それに私も影響されたのか、支援されたのか、高度生殖医療を経て、双子を授かるに至る話をした。
檜先生と「ジュンディー」さん以外、「アッタ」さん、「会長」さん、「キャセイ」 さん、「マジュディーヤ」さん、「アンク」さんと私は女性。やっぱりおしゃべりすると時間が経つ。もう市場に行ってもそれほど時間はないし、近くを散歩してそのまま拙宅に行ったほうが良かろうということになった。緩い計画はそのまま緩く進んで、イスラエル博物館のそばの「十字架の谷」の方に向かった。オリーブの樹が並ぶ、エルサレム市民にとってはちょっとした憩いの場だ。坂道を降ったところにギリシャ正教会の修道院がある。ただ現在、修道僧たちはもう生活していない。正教会系の巡礼者たちはよく訪問するところだが、主流観光コースには入らない 。 私はどこか日本的「わび・さび」の雰囲気をもち、修道僧の生活の後がそのまま野放しで残されているところが気に入っていて何度か訪れたことがある。ただ、十字架の谷の方から道が繋がっているかどうかはっきりせず、「ジュンディー」さんに先回りをして助けてもらった。行ける。行ける。岩がゴツゴツ出ていて足場は悪いが、その岩場の片隅に白い野生の花も咲いていた。
修道院の入り口は小さく、膝を曲げないと入れない。なんだかお茶室に入るような感じだ。ここを訪れる度、 観光スポットにしたいのかな?と思わせる変化が見られ、中庭でお茶を飲めるスペースもできている。でも変化は緩やかでそれがファンシーな観光地にならず、オーセンティックな感じを残しているのかもしれない。廃墟っぽいところもある。エルサレムの真ん中にある隠れたスポットだろうか。修道僧たちのキッチン、食堂、サロン、書斎があり、朽ちた古い地図もあった。午後3時ごろだろうか、閉まる直前に出た。
ここから拙宅まで車では10分ほど。主要道路まで歩いて行ってタクシーを捕まえようと思った。歩いて、途中でボーイスカウトたちの集まり、誕生会、子供達の遊ぶ公園をみる。その間にタクシーをゲットしようと思ったが、できない。通過するタクシーはいつも乗客が乗っていて通り過ぎる。公園まできたところでタクシーを呼ぶが、金曜日の安息日前でタクシーは全て出払っているとあっさり断られる。結局拙宅に電話して主人に車に乗ってきてもらい、そこで車組と歩き組に別れて拙宅まで行く。主人が歩き組に私は運転手になった。
当日、双子の1人の「ゆー(יובל )」はボーイスカウトに行っていた。もう1人の「しゃー( שחר )」は家にいたが、ちょうど友達が帰るところだった。皆さにはリビングでくつろいで?いただいて、お茶を・・・とゆったりとご歓待したかったのだが、 家に帰るといつものような「普通の」めまぐるしい展開になった。主人が下ごしらえをしてくれていたレンズ豆のスープの続きに取り掛かり、バタバタと台所で夕飯の準備。ちょうど「時間守れないADHD先生」がラマッラーから戻ってきたと電話が入り、ダマスカスゲートまで車で迎えに行くことにする。しばし失礼をして、東エルサレムへ。その間に主人と歩き組のみなさんがご到着し、「ジュンディー」さんはうちのピアノでベートーヴェンを弾かれたとのことでした。(聞けなくて残念でした)。「時間守れないADHD先生」を金曜日の夕方でごった返しのダマスカスゲートで見つけて無事ピックアップしたところで、もう「ゆー」のお迎えの時間。おっととそのまま「時間守れないADHD先生」と「ゆー」を迎えに行く。うちから近くのトラムの駅の広場だ。だが、「ゆー」のグループの到着が遅れていて待機。しかもイスラエル流の「バラガン(ぐちゃぐちゃ)」のままの解散状態なので、「ゆー」を探すのに一苦労。やっと見つけると、頭をぶつけたらしく泣いている。とまあそんな感じで、あれよ、あれよとなんとか無事に家に帰り、皆様をお待たせして夕飯の支度となった。我が家は、主人の「アマ」がベジタリアン(魚は食べる)で、「ゆー」はセリアック病でグルテン除去食を取らねばならないので、食事は色々制限がある中で、またそれぞれのために品を変えたりする。金曜日の夜は、大抵、魚がメインのディナーだ。この日も普通の金曜日のメニューを中心にしたものにした。(お客さんがくるので張り切って新しいものを作ったりするとかえってうまくいかなかったりするので、手持ちのレパートリーで)。黄色のレンズ豆のスープ、ハーブ入りの魚のオーブン焼き、サラダ、市場からのピクルス、オリーブ、フムス、安息日のパンの「ハラー」ジャガイモなど。「時間守れないADHD先生」と「しゃー」が台所のことを手伝ってくれ、いよいよ夕飯となる。檜先生にいただいたワインで乾杯した。
「しゃー」も「ゆー」も「アッタ」さん、「会長」さん、「キャセイ」 さん、「マジュディーヤ」さん、「アンク」さんにくっついたりして可愛がっていただいた。特に「ゆー」は日本ではいつもどこでも「お姉さん」を見つけてべったりとなる。この日もそう。。。「しゃー」もコインのコレクションを引っ張り出してきたりで嬉しそうだった。
デザートはこれも市場のアイスクリーム屋さんからのシャーベット。お腹がいっぱいになったところで、しゃはるに「じゃあ、チェロを弾こうか」と誘う。練習はいまいち好きではないけれどどういうわけか人前で弾くのが大好きなのが「しゃー」。バッハのメヌエットとパーセルのリゴードンを弾いた。レパートリーは、日本の鈴木メソードの教則本からだ。そして普段は人前などでは隠れてしまう「ゆー」も初めて1ヶ月半の金管楽器「バリトン・ホルン」を弾く。2人にとってはとてもいい経験になった。
いつの間にか夜も更けて、ではそろそろお開き。
タクシーを呼んだら、今度はちゃんと7分後に来てくれた。またこんな日が戻ってくるのではと期待のような予感のような気持ちを抱きながら、みなさんを送った。