アラビア語「塾」

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アラビア語「塾」30周年パレスティナ巡礼紀行(その5)

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約 19 分

 

アラビア語「塾」30周年記念パレスティナ巡礼紀行

2018年10月30日(火)- 5日目
執筆:キャセイ

ナブルス市観光、セバスティア(ローマ遺跡)

 

ベイト・ラハム(ベツレヘム)のキリスト聖誕教会(Church of the Nativity)を含むメンジャー広場(Manger Square)周辺の諸教会から聞こえてくる朝の鐘の音で起床。不覚にも人生初の団体旅行にて感冒罹患、頭痛・鼻水・咳が引き続き止まらず。日較差の激しいステップ・砂漠気候、寒さの中浴びる朝のシャワー、水圧が限られ閉塞した場所で長い髪を洗っているうちに体温が取られる。次回の旅では総合感冒薬と首回りがゴムのすっぽり被れるシャワー・ローブは必携、と固く認識。

朝食

朝食は8時から、いつものアラブ・メッゼ。実は我が家の朝食もホブズと呼ばれるパンやひよこ豆ペーストのホンムズ、地域により様々な呼ばれ方をするキュウリ・玉ねぎ・トマトをオリーブ油とレモン汁で和えたアラブ風サラダは定番アイテムなのだが、やはり本場は品数や具材の新鮮さがたまらない。特に近所のパン屋さんからキッチンに持ち込まれる焼きたてパンの芳醇なイースト香は食欲を必要以上に誘ってしまう。一口ずつ取ったメッゼの各種ペーストをちょっとずつ食べただけ、のつもりが、焼きたてパンを残さず食べたところで毎朝満腹。朝から反省、連続3日目。

(メッゼが並ぶ朝食ブッフェ)
(凝縮した味の野菜と焼きたてパンと共に)

朝食を終えると、日が高くなり始め、今日も雲一つない青空、暑くなりそう。ガイドのサラーハと合流、バスに乗り込み、ナブルス・セバスティアに向け出発。まだ肌寒い石畳の細道を足早に行き交うベイト・ラハムの朝の風景にも慣れて来た。世界からのキリスト教巡礼者が跡を絶えないこの地だからか、ローカル・ムスリム住民の服装は比較的現代調。女性の全身をすっぽり覆う上着も、ニット風リブ編みが身体の線をやや強調気味。もちろんメイクはまゆとアイラインがキリッとエキゾチックでしっかり下地も整えた特色のアラブメイク。出陣準備を何時からスタートするのだろう。

ナブルスへ向け出発

前日、アリーハ(エリコ)へ向かったのと同じパレスチナ遺産センター・マハサカの前を通り、自治区内だというのに設置されている数々のチェックポイントの一つを通過。既に、街の風景として慣れて来たものの、毎回頭を過ぎる疑問。パレスチナ暫定政府を「宣言」した1993年のオスロ合意、これにより具体的なプロセスを定めようとした1995年のタバ合意。その具体化でイスラエル・パレスチナ双方の統治権の異なる3つのエリアを「パレスチナ自治区」内に定義した。結果、その後微妙な土地からイスラエルは入植をし、壁を作り、軍がエリア間の人や車の出入りの監視・統制を実施。「国内」も「国境」でも兵役義務をこなす若い男女兵士の持ち場になっており機関銃を肩にスマホに集中。日本人観光客グループにはほぼ無関心だが、パレスチナ人へはハラスメントとも呼べる尋問や車や所持品チェックなどが実施されているとのこと。分離独立した国を求める住民もいるが、その手前の自治すらまだ遠い。

(チェックポイント監視塔と壁)

ナブルスは、ベイト・ラハムから、ステップの丘が広がる道路を北に走り約50キロ行くとある北部の都市。歴史的にも、ダマスカス、ベイルートやバグダッドと並び称される、経済、文化、芸術の中心地だった。中心広場からスークや丘に広がる石造りの住宅地を見上げると、確かにダマスカスを思い出させる「小ダマスカス」と呼んでもよい風景が広がる。バスや車が所狭しと道路を塞ぎ、歩道に乗り上げUターンする埃まみれのセダン、炭火焼肉からモクモクと上がる煙と人の群れ、笑顔で挨拶をしてくる制服の子供達。アラブ側に来た、と暖かな気持ちになる。

(オリーブや背の低い木々が続く丘)
(ナブルス市街への入り口)

サラーハに追随、スークの石畳の細道を進むと、魚、スパイス、スイーツ、野菜に鶏、などなど、フレッシュマーケットが続く。買い物意欲と交渉魂が湧き上がるが、まずは観光・視察。

(ダマスカスを思わせるナブルスの街並み)
(パレスチナも魚料理は豊富)
(購入時まで「フレッシュ」な鶏たち)
(量り売りのナッツやスパイス)

ナブルスは1987年に発生した第1次インティファーダの拠点であることが、一般の日本人の記憶や興味であることはないと思う。が、この地域の歴史的出来事を正しくそして現地の視点で理解できるように、とエルサレム出身・在住のサラーハが「サプライズ」で連れてきたのがスハイブ。ちなみに第1次はガザ地区でイスラエル人とパレスチナ人の間に起きた車の衝突事故がきっかけで1993年のオスロ合意で沈静化。また2000には第2次が勃発、これはエルサレムのアル・ハラーム・アッシャリーフ(アル・アクサ・モスク)にリクード党首だったのちのシャロン・イスラエル首相が武装した側近と入場を強行したために始まった。

スハイブはナブルス出身、インティファーダ当時は小学生だった、という地元人。本日夕方、セバスティア遺跡見学の最終地点ナビ・ヤヒア・モスク(Nabi Yahya Mosque Saint)で聞くことになるのだが、彼はイスラエル軍の航空部隊がナブルス上空に飛んで来た際たまたまマドラサの外に出ていて目撃、教室に戻って先生に息を切らせて話に戻った、という経験をしている。

(ガイドのスハイブ(左)とサラーハ(右))

 

ナブルスの街並みは、歴史を思わせる石造りの壁に鋳鉄の窓枠、そして所々の植え込みや中庭から緑が顔を出し、あちこちに小さな礼拝所や公衆飲料用噴水がある静かな中世的な雰囲気。インティファーダ開始からの出来事を熱く語るスハイブの話を聞いているうちに、この静けさにはいくつかの意味があることがわかった。元々「小ダマスカス」であるこの地域は活気のある、「主張」をする町だった。自治を勝ち取ろう、自分の都市を守ろうとする気概に溢れた土地だった。だからここはインティファーダの起点となった。町中のここかしこに貼ってある一見映画スターかと思われる戦闘服に機関銃を抱えた若者のポスターや「殉死者の石碑」が示すように、先頭に立って戦った者たちは大国をバックにするイスラエル軍の鎮圧に次々倒れ、ナブルスの戦闘力は沈静化されてしまった。そしてもう一つは、そうした最中、フセイン・アブドゥルハディパレスがいい例であるように、この土地のより経済的に恵まれていた有力家族達はヨーロッパやアメリカに逃避・移住してしまい、古くからの歴史的建造物を含む多くの建物が持ち主不在で空き家になってしまった、ということ。アラファト元PLO議長のお忍び入場劇、勇敢に戦った勇者への賞賛、聞くに耐えない惨殺。戦争論や紛争解決を学び中東地域の歴史や文化や言語にも傾倒していた当時、ビル・クリントンが第一回目の大統領当選、その大統領が「証人」としてあたかも彼自身が両者をつなげたかのような映像効果で世界を湧かせたオスロ合意は全てアメリカ西海岸在住時に経験した。政治的にはリアリストに対してアイディアリスト(理想主義者)が勢いを増し、ついに平和がやって来るか、と期待をした。この合意で第一次インティファーダも沈静化した。しかしその後も結局メディアがこの地域を捉えたのはやはり紛争だった。

(主人なく維持も)
(インティファーダ戦士殉死者のポスター)
(殉死者の碑)
(アラファト伝記)

 

天井が覆われたスーク隣接の住宅街をスハイブの話を聞きながら、心重く歩き続けたどり着いたのが元石鹸工場・現スパイス&各種雑貨店。誇り高きアラブ商人の心を傷つけるのは良くないので指摘は避けたが、この店の名前が「Break Mill」だと紹介するその看板の中に、「Braik Mill」とも「Breik Mill」ともある。日本でも商品パッケージやTシャツやイベントポスターなど、わざわざ英語やフランス語やドイツ語など(他の言語はわからない)で書いた笑っちゃう表現を散見するが、アラブも負けてはいない。更に自分で綴りや意味を作り変えても頑固に正しいと主張するから気をつけないといけない。10年前にヨルダン滞在時に「nephew」の意味を正して喧嘩に発展したことを思い出す。ここの「アルカマシュ石鹸工場」という名前の工場は既に操業してはおらず、今ではスパイスやハーブ、それを活用したハンドクリームや石鹸などを販売している。所狭しと並ぶ腰くらいの高さのある麻袋に、ザータル、カルカデ、スマック、などが、ドンっと山盛り。一気に物欲に火がつき、皆お土産購入に走り、暗い歴史話で沈んだ心が一気に癒される。

 

(ブレイクミルの看板)
(スパイスの量り売り)

ハマーム見学

更にスークを進むと、サラーハから「女性参加者の特別企画あり」、とのこと。マルサバ修道院は女性禁制で残念無念だった故、意気揚々とスークの横道を進むとそこは「女子の園」ハマーム・アッシファー・アットゥルキーヤ。後で調べると実はナブルスはサービスの良い2箇所のハマームで有名、そしてアッシファーはそのうちでも伝統ある「公衆浴場」。写真撮影をしないことを条件に、内部へ。受付カウンターを過ぎてまず通されたのは大きなサウナ・ホール、いや、サロン。色とりどりのタイルが敷き詰められた床、壁、天井のある広い空間の真ん中に20〜30名の女性が横たわれる石のサウナベッド。実際、髪をほどき、大きなバスタオルに包まったアラブ老若女性陣が所狭しと温浴中。日本人女性観光客がゾロゾロ・ジロジロと見学に来るも、「マルハバーン!」「アハランワサハラン!」「ハーイ!」と皆でウェルカム。日本で近所の公衆浴場に外国人観光客がグループで入ってきたら、①完全無視な人、②ジロリと一瞥・自分の世界に戻る、③風呂場管理人にもの言う、のいずれかでしょうか。ナブルス女性にとっては、ハマームは風呂場と言うよりは綺麗になりながら家族や友人と交流する社交の場、と言うことだろう。

 

(ハマームへの細道)
(ハマーム・アッシファー)

 

ハマーム見学を終え、再びスークのメイン通りに戻り、サラーハ、スハイブと男性旅行生とクナーファのお店、で合流。檜先生が座られている方を見ると、ツアーグループには明らかにいらっしゃらない新たな日本人の女性が…。この方には数日後エルサレムで再会することになるが、日本人同士がナブルスのスークの真ん中で待ち合わせは、かなり非日常の光景。さて、クナーファあるいはクナーフェと呼ばれるケーキはパレスチナの伝統菓子。白いチーズ、セモリナ生地と砂糖のシロップが層になったナブルスのクナーファは中でも有名な地元名産。食べると、なんとなく懐かしい。そう言えばヨルダン滞在時もよくお茶と一緒に食していた。今回の旅は短期間の凝縮ツアーだが、街のマクハーにゆったり座ってスイーツをいただきながらピープルウォッチングしたり、地元の人との交流を楽しむ余裕の旅をしにまた戻れたら…と思う間に次の地点へ出発。

 

(チーズ風味のスイーツ、クナーファ)
(クナーファ製菓材料のセモリナ生地)

セバスティア遺跡

ナブルスを後にし、セバスティア遺跡に向け出発。見学前に、遺跡の麓にあるレストラン、その名も「聖地の太陽」で昼食。いつもながら食べきれないほどのコース料理が登場、青麦のスープに始まり、ちょっと分厚いクレープ状のパン、パレスチナ風チキンピザ の「ムサッハン」(伸ばしたパン生地の上にローストチキンとオルスパイス、玉ねぎ、サフラン、スマック、オリーブオイルで揚げた松の実が乗っている)、ロンググレインライスとナッツとパセリのピラフ、

アラブ・メッゼ(フンムス、ムタッバル、タヒニ、ザールーク、トマトときゅうりのサラダ)。朝食がやっと消化されたと思ったらまたもや満腹。

 

(昼食は「聖地の太陽」にて)
(パレスチナのチキンピザ、ムハッサン)

 

セバスティア遺跡はローマ時代の遺跡。現在は人口約4、5000人の村で、西岸自治区・ナブルス地区から約12キロのところにある。街の4割はオスロ合意時に決まった「エリアC」に属している。元々は「ショムロン」と呼ばれていたこの地域を改名したのはヘロデ王。 セバスティア、と言う名前は、ギリシア語で「由緒がある」という意味のsebastosに基づくらしい。

 

セバステはサマリア人の土地として栄えるが、その後カナン人、古代イスラエル人、ヘロデ朝、ローマ、ビザンチン、その後アレクサンダー大王、などなど、この地域の例に漏れず、様々な権力の興亡に巻き込まれる。もれなく、オスマン帝国の一部となり、イギリス統治下に置かれ、そして1949年の停戦合意に基づきヨルダン統治下に、そして1967年に6日戦争後にイスラエル統治下に。めまぐるしい。

 

衣食住、生命の安全や自治など、基本的人権が定まらないからか、あるいは、あまりに遺跡が多すぎるからか、バシリカも円形劇場も、全くの放置状態にしか見えない。スハイブの説明を聞きながら、崩れた石柱を眺めながら想像力を駆使する。ラクダ乗りを売る少年がいたが、まずはやはり歴史遺産のプレゼンタビリティを上げるべきだろう。

 

(セバスチア遺跡のバシリカ)

 

山のてっぺんに登り詰めると、ここを権力者が奪い合った意味がよくわかる。飛行機もなく、摩天楼を築く技術もない時代、辺りを見渡せる要所があり、ある程度他地域から隔離され守られた場所。今は静かにステップの緑が広がる丘が連なり美しい風景だ。

 

(セバスチア遺跡を見渡す)

 

山を下り、バンクシーか?と思われる壁絵が続く村道を歩いて行くと、セバスチア遺跡博物館の看板。ここには、ナビ・ヤヒアまたは洗礼者ヨハネ(St. John the Baptist)が埋葬され祀られている。言い伝えによれば洗礼者ヨハネはトランスジョルダンで斬首刑にあったと言われ、サマリアに多く住んでいた彼の弟子たちがセバスティアに運び、それが発見され埋葬されたとか。現在はナビ・ヤヒア・モスク(Nabi Yahiya Mosque)としてイスラムのモスクとなっているが、元々はビザンツ時代にカトリック教会が墓の周りに建てられたのが始まり。サラーハディーンがモスクに変えてから現在に至る。

(バンクシー a laセバスチア)
(セバスチア遺跡博物館)

 

ローカルガイドのスハイブの交渉により鍵管理人さんからお墓の内部を見せてもらう。今となっては本当にここに聖なるご遺体があったのかどうか。この土地に来て感心するのは、血で血を洗う戦いをした宗教同士が奪い合ったモスクまたは教会を、キリスト教徒とイスラム教徒がそれぞれ焼き討ち崩壊させるのではなく、掲げるシンボルを変えて継承した、という例が数々あること。異なる宗教でも神と預言者、そして歴史を重んじる気持ちが避けたのだろうか。

(セバスチアの歴史)
(洗礼者ヨハネの墓)

 

バスに乗り込みナブルスへ立ち寄り、お待ちかねスークでの自由時間30分。急いで時計台のある広場の裏にあり目を付けていた生地屋に走り、赤と黒のコントラストが美しいパレスチナ柄の生地を購入。テーブルクロスとクッションでも作ろうか…、いやトートバッグか。時計を見ると後10分でバス出発の時間。ダッシュでスパイス屋に駆け込みマンサフの元とクミンパウダーを入手。後30分あったら、ブレイク・ミルに戻って石鹸追加購入できたのに。

 

スハイブとはお別れ、バスに乗り込みベイト・ラハムへの帰路、交通渋滞に巻き込まれ、かつバスが前のイスラエル人乗車の乗用車と追突。まさかの事故だったが話し合いにより一件落着、したように見えた。が、どうもバス運転手が居眠り運転?だった模様。大事に至らず、諸神様のご加護に感謝。

ホテルに帰還

ホテルに無事戻り、ベイト・ラハム最後の夜はホテル内のレストランFawlaで夕食。フレンチと地産食材のマリアージュが売りで、人気だそう。我々が到着した日には「シェフはパリに行って留守なのでレストランは休業」とのことだったが、休業明けの初日のこの日は、欧風の洋装の家族や男女のグループで賑わい、おしゃれな雰囲気。この日のメニューは西洋カボチャのコリアンダー風味のロースト、ビーツ・タヒニ和えの野菜アソート、ラムのローストとザクロ・青麦・松の実とオレガノサラダ、チョコレートケーキのピスタチオ添え。Taybeh WineryのNadim/Cabernet Sauvignon & Chardonnayとともに頂く。Trip Advisorの点数も高いようだが、未だ成長を期待したい、というところでしょうか。

 

(Fawla Restaurant)
(フランス仕込みのメインディッシュ)

 

ちょっと埃っぽく活気溢れるスークや街とインティファーダの過去が同居するナブルス。日本によるパレスティナ産業支援の一環の新しいホテルとフュージョン・アラブ・フレンチ。今晩がベイト・ラハム最後の夜。

 

5日目:ナブルス番外編(ハンマーム探訪記)へ→

タッブーレ先生の旅行記

タッブーレ先生の旅行記はタッブレー先生が別行動をした際の記録です。

ホテルの前では、サルのポーターがお出迎え。門番もいる。バンクシーの作品だらけの中、チェックインしようとレセプションへ。レセプションではなく、リジェクション。のっけから目を奪われる。
きっと他にも仕掛けがありそう。

ホテル内の美術館が閉まりそうなので、さっそく美術館へ。
ここからが始まり。バルフォア宣言。右手は書簡を書く姿か、動いている。

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壁の電話が鳴り続けている。受話器を取ると、「イスラエル軍だ、外へ出ろ、5分後に空爆する」と聞こえる。実際に電話がかかってきた家のひとたちは・・。

宿泊する部屋「プレジデンシャル・スウィート」へ。ルームキーも壁。本棚は宿泊階への入り口。

部屋はバンクシー作品。イギリスを小馬鹿にしている感じがそこかしこに。

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サービスのパレスチナワイン。水もホテル仕様のhope。飲み物は、紅茶と冷蔵庫に牛乳。イギリスらしくミルクティーを飲め、ということか。

書斎にはイギリスの本だらけ。本棚を探っていると双眼鏡を発見。窓の外を監視してみる。向こう側がよく見える。

世界一眺めが悪いという・・窓からの景色。バルコニーからの景色。壁の向こうにはきれいな建物の町が見える。

ホテルの共用スペースにも、バンクシーのメッセージが。

夕食はホテルのロビーで。会計時には、ホテル仕様の飴付き。

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ホテルロビーの作品たち。いろいろなメッセージが表れている。

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早朝、近くの壁の絵を見に。壁じゃなくてホンモスを作ろう。

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朝食。いちいちイギリス感。ファラーフェルはあげたてでおいしい。

早朝に壁を見ていたら、昨日の朝に壁ツアーに連れて行ってくれたタクシーの運転手さんが偶然通りかかり、またホテルまで送ってもらった。

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