アラビア語「塾」30周年パレスティナ巡礼紀行(その2)

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アラビア語「塾」30周年記念パレスティナ巡礼紀行

2018年10月27日(土)- 2日目
執筆:マジュディーヤ

テルアビブ観光(世界遺産、白い街並み、ヤフォー観光)、
ベツレヘム着(ホッシュ・アッシリアーンHTL泊)

 

 

前日に成田から出発した飛行機をイスタンブールで乗り換え、テルアビブへ。着後、テルアビブ観光、ヤッフォ観光終了後、ベツレヘムのHosh-Al-Syrianにチェックインというのが、大まかな日程です。

日本を出発~テルアビブに到着

成田を夜遅く出発するトルコ航空は夜間飛行の時間制限が設けられているそうで、早め早めの搭乗手続きが行われ、定刻より20分早く出発したトルコ航空TK053便は、予定の午前3:35より早い3:15にイスタンブールに到着しました。テルアビブ行のTK784は午前6:40発なので、待合室で少しゆっくりできるかしらと思っていたら、椅子はどこもいっぱい。すっかり横になって寝ているひともいます。で、とりあえず空港内を探検。免税店は未明にもかかわらず開いていますが、まだまだ旅は始まったばかりなので、購入はせず見るだけにします。7年前にイスタンブール空港に来たときには、お店や商品がこんなに充実していなかったな~進化しているな~とちょっと感動。7年前と変わったことといえば、トルコ航空機内の個人モニタープログラムも、です。メッカの方向やお祈りの時間を見ることができるようになっていて、コーランのチャンネルもありました。こんなの前は無かったよね?トルコのフラッグキャリアとしては、大統領の意向に沿うつもりなのか…自由で楽しいトルコが戻ってきて欲しいです(>_<。)閑話休題。トランジットの入り口で手荷物検査を受けましたが、搭乗口の待合室に行くと、またそこでも検査でした。全身くまなくチェックされるし、靴も脱がされ、かばんの中身も見られます。さすがイスラエル行きの飛行機です。でも、まだトルコなので、職員のみなさんにそれほどの緊張感はなく、笑顔で談笑しているひともいました。

ほぼ定刻の午前8:40にテルアビブに到着し、入国審査です。イスラエルの出入国審査は厳しくて、時に別室に連れて行かれ、いろいろ聞かれることもあると聞いていたので、緊張して赴きます。列に並んでいると、ブースの審査官と話した後、ホールの片隅にある別室に向かうひとがちらほら。えー何を聞かれるんだろう?!(どきどき)いよいよ、わたし達のグループが始まりました。二人三人と問題なく次次進み、わたしの番です。

「グループ旅行ですか?」
「はい」
「何人ですか?」
「フィフティ(50人)んん?いや、フィフティーン(15人)」(注:本当は18名)
「はい、どうぞ」

ボケボケの答えで、これ以上、何を聞いても無駄だと思ったのか、中年男性審査官、すぐにパスポートを返してくれました。ツアーの誰も別室に連れて行かれることはなく、全員無事入国手続き終了です。
出口では、ガイドのサラーハさんと現地集合のお二人が待っていてくれました。現地通貨シュケルを手に入れるため、各自両替所やATMへ。幾らくらいいるのかな?とりあえず100シュケル(約3000円)をATMからわたしは下ろしました。みんなでバスへ向かいます。中東の団体旅行でよくある大型バスかと思ったら、あれれ?マイクロバス?出迎えに来てくれた旅行会社のマルゴさんからバクラバとコーヒーをいただいた後、乗り込みましたが、人間だけでほぼいっぱいになってしまい、運転手のアリーさんの奮闘もむなしく、5つほどのスーツケースが積み残されてしまいました。積めなかったスーツケースはマルゴさんが自分の車に積み込み、今夜泊まるベツレヘムのホテルに先に運んでくれるというので、私たちは、そのままテルアビブ観光に出発です。後部座席はスーツケースが山積みだったので、後ろの席にお座りの方は移動の間、それらが崩れないように押さえていなくはならなかったそうです。すみませんでした(^_^;)

テルアビブで観光

まずは、世界遺産「テル-アビーブのホワイト・シティ — 近代化運動」(©UNESCO)を車窓から観光。「首都エルサレムの北西56㎞、地中海に臨む同国第一の都市。テル・アビーブ(「春の丘」の意)は1909年、英国統治下にあったパレスチナに、ユダヤ人居住地として建設され、1948年にはこの地でイスラエルの独立が宣言された。1930年代初頭から1948年にかけて建設されたホワイト・シティは、現代的・組織的に建築されたビルや住宅の建造物群。ヨーロッパ各国で知識と経験を積んだ移民建築家が設計し、建築の近代化運動が目指した調和効果を見事に実現した。」(source:NFUA)ものだそうです。見た感想として「現代人から見るとホントに普通の街」「うちの近所にもこういうビルいっぱいあるけど(笑)」とブログに書いているひとがいましたが、同感です(笑)。中央分離帯が公園のようになっていて、休日だからか、たくさんの家族連れが芝生の上で、のんびりしていました。なので、住宅街だと思うのですが、あちこちの建物の壁にグラフィティがあって、日本とは違うなぁと思いました。日本だと壁の落書きは橋の下とか古いビルの壁のような、あまり人通りのないところにありますよね?そして、犬を散歩させているひともいっぱいいて、ここはアラブじゃないんだなぁとも思いました。
旅の5日目に行くナブルスの市場との違いを感じて欲しいとのサラーハさんの案内で、近代的な「Sarona Market」に行きました。野菜も肉も魚もお菓子もアイスクリームもきれいに陳列され、アジアの調味料が売っていたり、ピザや寿司が食べられたり、おっしゃれーな市場です。

 

ヤッフォに移動しお昼ごはん。「 مطعم اسماك أبو العافية 」(ABOUELAFIA Fish restaurant)で、魚のグリル、鶏のグリル、ラムのグリル、ケバブなどをそれぞれ注文しました。ミント入りレモネードを一緒に頼んで、
お会計は120シュケル。あら、現金が足りません。米ドルで払いました。どのメニューも100シュケル前後でしたので、現金不足になる人続出です。『地球の歩き方』に「イスラエルはほかの中東諸国とくらべるとかな
り物価が高い。」とあります。実感しました。「お昼をシュワルマやファラフェルのサンドイッチと飲み物だけですませば 1000 円以下だが、しっかりしたランチを取ると 2000~3000 円。」とも書いてあります。後日エルサレムのオールドシティで買い食いしたファラフェルサンドイッチは 8 シュケルでしたので、食事の値段は場所とお店に依るのでしょう。お昼ごはんの後はヤッフォの旧市街を歩いて観光しました。見たのは次のようなところです。(説明は『地球の歩き方』『大辞泉』『Wikipedia』から借用しました)

〈時計台〉
1906年にオスマン朝のスルタン・アブデュルハミド2世の在位30年を記念し建造された町のシンボル。

〈聖ペトロ教会〉
フランチェスコ修道会の教会。イエス=キリストの十二使徒の一人ペテロが、ヤッファを伝道の起点としたことを記念し、16世紀半ば、十字軍時代の要塞跡に建造。2度破壊されたが、19世紀末に再建、20世紀初頭に改築されて現在の姿になった。(キリスト教教会の多くは東向き(扉口が西側)に建てられるそうですが、ここの聖ペテロ教会は西向きだそうです。)

〈ジャーマアルマフムディーヤ〉
オスマン帝国時代の18世紀から19世紀にかけて建造。(『地球の歩き方』では「通常ムスリム以外は中に入れない」と書いてありましたが、中庭までは入れてもらえて見学しました。果樹が植えられていて、きれいなお庭でした。)

〈アルバフル・モスク〉
ヤッフォで最も古い現存するモスクで、名は「海のモスク」という意味。(すぐ近くに教会が造られているというのがサラーハさんの説明でしたが、教会の名前をメモしておりません。グーグルマップによるとアルメニア教会が近くにありますが…確かではありません。)

〈アブラシャ公園〉
願いごとがかなうという「願いの橋」の横を素通りして、紀元前の古代エジプトの遺跡を見学しました。サラーハさんの説明をメモった手帳にはトトメス三世の門と書いているのですが、グーグルマップにはラムセス門とあります‥どっちだろう。トトメス三世はエジプト第18王朝(紀元前1570年頃-紀元前1293年頃)、ラムセスはエジプト第19王朝(紀元前1293年頃-紀元前1185年頃)の王様です。

〈皮なめしのシモンの家〉
新約聖書使徒言行録9:43~10章に記述される、イエスの使徒ペテロが滞在したとされる皮なめし職人の家。
海沿いの道を散策しましたが、地中海でサーフィンするひとや、浜辺でまったりする水着姿のひと達を見て、ここはアラブじゃないんだなぁともまた思いました。観光終え、ケデュミーム広場でバスを待っているときに、広場にナポレオン帽を被った像があったので、観光地によくあるレストランかお土産屋さんを案内する像なのかなーと思っていたのですが、ヤッフォを案内するナポレオンの像だったようです。フランス軍司令官だったナポレオンはエジプト攻略に成功しパレスチナに攻め入りヤッフォを占領したものの、フランス軍陣営ではペストが流行し、このときのことについて描いたのが、パリのルーヴル美術館にあるアントワーヌ=ジャン・グロの《ジャファのペスト患者を訪れるナポレオン、1799年3月11日》という作品とのこと。紀元前18世紀から連綿と続く港町・ヤッフォ。歴史上のいろんなひとが訪れているのですね。

ベツレヘムへ

バスでベツレヘムへ向かいます。パレスチナが行政権・警察権を持つヨルダン川西岸地区A地区に入ると町の様子が違ってきました。道路の舗装もあまりよくありません。建設資材の手配などが充分にできないのかも。
これから4泊するHosh Al-Syrian Guesthouseに到着し、部屋の鍵をもらい荷物を持って各自の部屋へ。石造りの邸宅を改築したホテルでしたので、もちろんエレベーターはなく、荷物を運ぶのにはちょっと苦労しました。部屋は天井が高くて、雰囲気たっぷりで素敵です。日本のパレスティナ産業育成活動の一環で「塾」生の方もアドバイスしているとか。ベッドやリネン類に問題はありません。が、しかし、シャワーにはやや難あり。シャワーカーテンの丈が短く、シャワーベースの造りもよくないので、水があたりに飛び散り、使用後は洗面台やトイレの床がビシャッビシャに水浸しです。ホテル全体で部屋数は10ほどでしたし、シャワーブースユニットは楽天市場で10万円もしない価格で売っているくらいなので、産業育成活動の次の段階の支援として、ユニットを船便ででも運んで各部屋に設置するように手配して欲しいと思いました。併せてトイレの便座を温水洗浄便座に交換すれば、どの国からの宿泊客にも、きっと気に入ってもらえると思います。シャワーベースと長いシャワーカーテンと温水洗浄便座だったら、受託手荷物でもいけるかも。導入をぜひ検討していただきたいです。

 

中庭からの見た部屋はこんな感じでした。中庭には子猫がいました。

夕食は、ホテルからすぐのメンジャー広場近くのファラフェル屋「 مطعم ابو داوود 」(Abu DAWOD)に行きました。ファラフェルはじめ、どの料理も美味しゅうございました。隣り合って三軒のファラフェル屋があって、AbuDAWOD の隣・三軒の真ん中の「 مطعم اليافاوي افتيم 」(AFTEEM)は、”創業1948年、イスラエル建国により、ヤッファから逃れて難民となったサラーム一家が仕事を得る為にスタートした、ベツレヘムで最初のファラフェル・レストラン”だそうで、”ベツレヘムの地元の住民をして「ここがパレスチナで一番美味しい」と言わしめる、美味しいファラフェルが食べられます”とパレスチナの旅行ガイドサイトに紹介されていたので、翌日行きました。評判どおりのおいしい料理が供されました。ホテルから観光への行き帰り、朝晩これらの三軒の前を通ったのですが、Abu DAWODもAFTEEMも、ファラフェルを買って帰るひとや、中で食事をしているひとがけっこういるのに、もう一軒の(Abu Aladas)はいつもお客がいませんでした。値段が高いわけでもないようなので、やはりお味のせいでしょうか。敢えての挑戦はしませんでしたが、食べ比べてみればよかったかな。

(Abu DAWOD)
旅行前には、イスラエルやパレスチナって、どんな感じなんだろう?殺伐とした雰囲気だったりするのかしら?と少し心配な気持ちでしたが、一日目を終えての感想は、テルアビブはフツウの都会でしたし、ベツレヘムはフツウのアラブの町でした。出会ったひとも感じのよいひと達で、いぢわるだったり冷たかったりするひとはおらず、ほっと一安心して旅を続けることができました。

 

3日目:マルサバ修道院、生誕教会、ミルクグロット、シェパーズフィールド、パレスティナ人のお宅訪問、バティール村(世界遺産)→

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