アラビア語「塾」30周年記念パレスティナ巡礼紀行
2018年10月26日(金)-11月4日(日)
アラビア語「塾」30周年記念パレスティナ巡礼紀行
ベレシート(創世記)
「初めに神は天と地を創造された。地は形なく、むなしく、闇が淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。神は「光あれ」と言われた。すると光があった」。
第4回アラビア語研修旅行(オマーン)が挙行されて以来11年が過ぎた。中東への派遣団結成の機運が「塾」生の間で高まって来た時、そうあの時、アラビア語「塾」に光があった。
それはと或る「塾」生がアルジェリアの方と結婚され彼の地に住まわれ、しかも相手は観光ガイドをされているとの話が浮上した時の事であった。そうアルジェリアに行こう!しかし「塾」にはデルフォイの神託がある。「塾」生でもない、身も知らぬ東大生から伝えられていたアポロンの預言である。「塾」の研修旅行は「必ず行先に異変が起こり、変更が余儀なくされる」。
前回はイエメンのアルカーイダによる外国人殺害事件で、リビアそしてオマーンと行先を再検討する事になった。
デルフォイの神託は今回も的中し、行先をパレスティナに変更してもなお、余波が派遣団を襲う。トランプ米国大統領が米国大使館のエルサレム移転を発表(2017年12月)した事による騒動がベツレヘムでも発生したのである。苦慮した結果、延期の判断をせざるを得なくなった。
そしてキリスト誕生歴2018年、ヘジラ(イスラーム)暦1440年、ユダヤ教歴5779年、10月26日(金)とうとう第5次中東派遣団(総勢18名)はパレスティナへと旅立つ事が出来た。以下はその貴重な紀行記録である。
10月26日(金)トルコ航空TK053便,21:25成田発
出発当日昼間、旅行会社の担当者(ファイブスターの櫻本氏)から急な連絡が入る。
参加者の一人が、本隊とは別の航空会社でテルアビブに向かう予定だったが、出発国から日本へ向かう折り返しの飛行機が遅延していて、乗り継ぎが間に合わないかもしれない。至急成田に向かい、一本前の飛行機に乗る交渉をする方が良い、との情報を伝えてくれる。最終的にこの飛行機は大幅に遅延する事になる。
この助言のおかげで、一本前の飛行機に乗れ、乗継地でテルアビブ行きに無事に乗れ、我々と現地で無事に合流出来た。(櫻本氏の的確な情報に多謝‼)
さて、ここで感謝の意を込めて、我々派遣団を支援してくれた日本サイドの旅行会社並びに担当者を紹介しておこう。
日本側:((株)ファイブスター・クラブ
住所:郵便番号101-0051
東京都千代田区神田神保町1-13 CONVEX神保町8F
電話:03-3259-1511
担当者:櫻本竜市氏
奇縁な事であるが、我々が11年前に挙行したオマーン修学旅行を支援してくれた旅行会社「ネイチャーワールド」の担当者、芥川氏の上司が櫻本氏であった。当時私が頻繁に新宿の芥川氏の元に相談に行った際に、恐らくお顔を拝見していたであろう。
さて、櫻本氏より当時勤務されていた「ネイチャーワールド」の名刺をお守り代わりに渡されて、これでパレスティナ巡礼旅行の無事は保証された。
10月27日(土)イスタンブール03:35着。TK784便テルアビブ08:40着
テルアビブ観光(世界遺産、白い街並み、ヤフォー観光) ベツレヘム着(ホッシュ・アッシリアーンHTL泊)
執筆担当(マジュディーヤ/派遣団のムードメーカー。何処に居ても明るい 笑い声を聞かせてくれました)
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10月27日(2日目)私的記録
さて、到着の日に私は何をしていたか?の記憶を辿ると、先ず入国審査の長蛇の列と脇の別室に目を奪われた。アラブやパレスティナに関わる者達の鬼門の尋問部屋である。「塾」生の尋問最長不当(!)拘束時間は丸々1日との情報を耳にしていたが、やはり眼前に尋問部屋に列をなす海外の旅行者達がいると些か緊張する。しかし入国審査はグループツアーであるとのメンバーの申し出により、ほぼ質問無しで通過する事が出来た。
出口では、先行した二人のメンバーと現地ツアー会社の関係者が出迎えてくれていた。ここで我々をサポートしてくれる現地ツアー会社とメンバーを紹介ししておこう。
但し、この会社は(株)ファイブスターがコンタクトしていた会社ではなく、直接我々をサポートしてくれた会社である事を最初にお断りしておく。とても誠実に(勿論少々のミスはあったものの)対応してくれてお薦めです。
エルサレムの旅行会社「シャムス」
www.shamusactivites.com
Tel:02-6227466
住所:8 azzahara Street. Cinema Jerusalem Buil.1F
担当者:マルゴ・タルジィ氏
ガイド:サラーハ・ガーニム氏
ドライバー(1):アリー・アブームハンマド氏(10/27,28)急病の為に入院し交代
ドライバー(2):スハイブ氏、ベツレヘム・ナブルス間
ドライバー(3):ジャマール氏(10/30,31,11/1)携帯をイジリ過ぎて前に停車中の車に「カルロス・ゴーン(軽くゴン)」オヤジギャグですいません。
(10年後にこの旅行記を読んだ時の為に記念の時事ネタを入れておきます。将来何の話題か忘れた時のために、彼はレバノン系のルノー・日産の会長で会社の金を私的に流用した事で現在取り調べを受けています。因みに正式な読み方は「ゴーン」ではなく「ゴスン」原意は「枝」)
ドルをイスラエルの通貨シュケルに両替した。(1シュケル=約30円換算)因みにビザカードやマスターカードでのATMを使ったキャッシングの方がベターであるとのメンバーのアドバイスで以降はカードでシュケルを引き出している。
さてこの後はテル・アビーブ(ヘブライ語で春の丘)とヤフォーの市内観光なので担当者の筆に任せよう。思い出すのは、とても料理が美味しかったのとそれに見合う料金をイスラエル側では覚悟しなければいけない事であるが、この時は未だ、高額に「ギョッ」とするだけであった。
夜はベツレヘム(アラビア語では、肉の館、ヘブライ語ではパンの館の意味。元来はカナーン人の豊穣神「レヘム」の館の意味)ホテルの中庭で宴会。パレスティナ側の物価はお手軽値段で好感度高し‼因みに現地ワインは2本で25ドルであった。
尚、ホテルはなかなか良いムードだったが、水浸しになるシャワーコーナーだけは改善の余地あり!夜中にトイレに行った同室のジュンディー氏が床に残っていた水に滑って転ぶところだった。(体幹が強いので耐えられた‼)
10月28日(日)マルサバ修道院、生誕教会、ミルクグロット、シェパーズフィールド、パレスティナ人のお宅訪問、バティール村(世界遺産)
ベツレヘム(ホッシュ・アッシリアーンHTL泊)
執筆担当(ムトリバ ジュンコ/先乗りでパレスティナ各地を巡った後で合流。死海ではプカプカ浮き続け、踊りで鍛えた体幹の強さを披露)
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10月28日(3日目)私的記録
ひたすら観光に勤しむ。昼間にパレスティナ人のお宅で昼食を取るプログラムになっていたので、そのお宅のマダムとお嬢さんにお話しを伺う事になる。日本より遠路遙々きたアラブ通(?)の我々に、どうしてもパレスティナの境遇を聞いて欲しかったみたいであった。イスラエルの不当な行為について切々と語っていた姿は、ベツレヘムの町にある隔離壁と同様に一番印象に残る事であった。
10月29日(月)ジェリコ(誘惑の山)、ヒシャーム宮殿、死海、ナビー・ムーサー
ベツレヘム(ホッシュ・アッシリアーンHTL泊)
執筆担当(テル/ヨルダンより陸路で合流。コンクリートまで写真に撮り、それをネタに教師にいじられる)
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10月29日(4日目)私的記録
死海!泥に絡み付かれてビーチサンダルが埋没。泥に手を突っ込み探し出す!足を取られて岩に手を付き、手のひらを負傷‼止血をしながら浮遊。安定を崩して顔面が海水に浸る!「苦い」
あ~あ、全身塩で真っ白になりながら早々に退却!サラーハ氏に手を切った事を報告すると、監視塔で治療が出来るとの事で行ってみる。監視塔に登ると傷口の治療よりも、アラビア語を喋る日本人が珍しく「ツボにはまった」のか、監視員がスマホで会話を撮影し始める。二人いたのだが、両方ともフスハー(スタンダード・アラビック) が出来た。余程面白かったのか、話しが長引きなかなか出てこない私を心配したサラーハ氏が様子を見に来て中断。
傷はたいしたことはなかったが、大袈裟な包帯のおかげで、皆の同情をかう。
前半は自然に痛め付けられ、後半は人の情けにあった死海であった。
10月30日(火)ナブルス市観光、セバスティア(ローマ遺跡)
ベツレヘム(ホッシュ・アッシリアーンHTL泊)
執筆担当(キャセイ/予定していた別便の飛行機が遅延。1本前の飛行機に搭乗し事なきを得る。派遣団随一の英語の使い手)
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・ナブルス番外編(ハンマーム探訪記)
執筆担当(タッブーレ先生/驚くべき行動力で、本隊が寝静まっている時にあちらこちらと別働隊(全6名)を率いて走り回っていらっしゃいました。今回は代表して執筆して頂きました)
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・古都ナブルス(思い入れ編)
執筆担当(時間守れないADHD先生/パレスチティナウォッチャー。今回パレスティナ入りしている事は事前にお知らせ頂いていたものの、ナブルスの旧市街で、目の前を歩いているのを見るとはびっくりしました。。
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10月30日(5日目)私的記録
2002年4月に起こったジエニーン(胎児の意味)の街の虐殺事件は、現代アラブ史を研究分野としている者にとって忘れてはいけない出来事の一つであるが、その途中にあったこのナブルスもイスラエル軍の包囲にあって、多くの抵抗勢力が命を落としたところであった。
アラブウォッチヤーとして、基本的な姿勢を全く忘れてしまったのは、ジエニーンの虐殺のインパクトが強すぎたからでもあったが、やはり加齢を理由にする訳ではないが、月日が経つと、人間の記憶にあった事は消えていくと言う自然の成り行きだと思った。
しかしサラーハ氏が招聘した、ナブルスのガイドは、自らの体験を基に、このナブルスの旧市街でイスラエル軍と対峙して殉教した者達のポスターを説明しながら、16年前に起こった事を昨日の様に説明してくれた。
ナブルスの町のスーク(市場)がシリアの首都ダマスカスのスークと如何に似通っているかの説明はなかった。昨日のマダムの元で頂いた昼食の後のパレスティナの状況の説明と同じであった。如何にイスラエルがパレスティナ人を虐げているかを遠来の客に知って欲しかったのだ。
さて、我々は女性陣をダマスカス式ハンマーム(風呂)の見学に送り出し、クナーファと言われるお菓子(ナブルスの人々はクナーファが1番美味しいのは我が町であるとの自負があるそうだ)を食べさせる店に入ろうとしているその時‼
何と日本からフィールドワークの為に来ていた「時間守れないADHD先生」が目の前を歩いているのを発見した。早速、取っ捕まえて一緒にクナーファを堪能した。
オマーンの修学旅行の帰りもドーハ空港で「塾」生の「出稼ぎ」氏が我々を発見。驚かされたが、今回は更なる偶然のなせる業であった。
10月31日(水)オリーブの山、昇天教会、聖墳墓教会、ビア・ドロローサ、岩のドーム(見学できたのは非常に幸運であった。サラーハ氏の気配りのおかげ)
エルサレム(アメリカン・コロニーHTL泊)
執筆担当(ヨッシー/ワイン好き。自己管理能力に優れて、旅行中も体調管理に万全を尽くされていらっしゃいました。日射病でひっくり返った教師は深く反省)
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10月31日(6日目)私的記録
鬼門になったエルサレム初日。熱中症の日。昔は日射病の名で呼ばれていた。今回は正に日射病!
サイダリーヤさんに胃痙攣の薬をおねだりに伺ったのですが、大間違い。でもこの薬が効を奏して、嘔吐を誘引して後はすっきり❗「素人診断は控えましょう」
サハラ砂漠を駱駝で旅行中、現地の遊牧民が頭を抱え込む程の日差しの中を行軍し、日射病の激しい症状が出た事があり、恐ろしさは分かっているつもりだったが、喉元過ぎればナントヤラ。
油断しました。ガイドのサラーハ氏がヒラヒラ帽子を忘れないのを教訓にすべきでした。しかし10月31日に日射病になるとは‼ペットボトルの水をバスに置き去りにしたのも反省すべき要因ですが、自分の加齢を忘れていたのが敗因です。エルサレムは「太陽がいっぱい❗」アラン・ドロンは嫌いだ‼
11月 1日(木)むち打ち教会、嘆きの壁
エルサレム(アメリカン・コロニーHTL泊)
執筆担当(ジュンディー/とても礼儀正しい、ちょっと、とうの立った好青年。但し結婚観には譲れない点があるらしく、派遣団の女性陣に責められていました(笑))
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11月1日(7日目)私的記録
「ムハンマドのおっ母ちゃん」&「ムスタファのおっ母ちゃん」(因みにレストランの名前です)二人はさぞかし旨い料理を作ってくれたんだろうね‼残念ながら、昨日の余波で胃が動いていなさそうで、目の前のご馳走に手が出せず‼
ガイドのサラーハ氏の奥様の友人の食事デリバリー食堂。女性がオーナーの店はエルサレムでもここくらいだろうとの事だっただけに、手出しも口出しも出来ずに座るだけ⁉でとても残念でした。
11月 2日(金)自由行動日
エルサレム(アメリカン・コロニーHTL泊)
執筆担当(1)(エルサレムで慰めを受けた者/非常に念密な行動計画を立てられて、エルサレム市街を歩き回られていらっしゃいました。
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執筆担当(2)(アンク/とても外見からは想像出来ない行動派で好奇心旺盛。右に左に写真を撮っていらっしゃいました。
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エルサレム番外編(Dr.イブ先生)現地滞在歴30年越え。檜のヘブライ語の先生。今回博物館案内等色々とお世話になりました。
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11月2日(8日目)私的記録
自由行動の時間。参加者の皆様の約3分の1とイブ先生のお宅訪問。そこで「時間守れないADHD先生」と再会。ナブルスの通りで偶然にお会いしたのは、前述の通り。
イブ先生には14年前にヘブライ語を教えて頂いてからお付き合いさせて頂き、今回金曜夜に何処かでお食事をご一緒にとご配慮頂いたものの、ユダヤ教の安息日(シャパト)が始まりイスラーム教では金曜の休みの為に、レストランはなかなか予約が取り難いとの事でご自宅にご招待頂く事になった。
(先生、エルサレム訪問前に付け焼刃でヘブライ語を復習したものの役立たず、出来の悪い生徒で申し訳ございません。これを契機に「塾」生に辛く当たるのを今年いっぱいやめます)
イブ先生のご一家は音楽一家で双子のお子様達が自然と楽器に親しまれ、我々の前でイブ先生と共演してくれました。未だ幼いながらもなかなかの腕前でした。拍手‼
さて、イブ先生には、イスラエルサイドよりのこれからの展望をお聞きしましたが、やはりパレスティナサイドとの紛争が影を落とし「この国に未来はない」と観測されていらっしゃるのは、衝撃的ではあり、説得力のある言葉でした。
11月 3日(土)自由行動日
トルコ航空TK789便,20:55テルアビブ発
執筆担当(1)(Hank/:前回のオマーンに次いで参加して頂きました。今回も精神的なサポートをして頂きました。)
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執筆担当(2)(アッタ/前回のオマーン同様、レストランの料金徴収計算や、旧市街散策のガイド等色々とご支援頂きました。)
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執筆担当(3)(アンク/11月2日に続いての2日目の執筆。右に左に駆け回って写真を撮っていらっしゃいました。)
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11月3日(9日目)私的記録
最後の関門で捕まった!出獄(国)の際に詰問を受けてしまった。リーダーは誰か?の問い掛けに、ここまでは想定内と思い尋問を受ける。
2番手が呼ばれる。Hankさんに行ってもらおうと思っていたのだが、個人的に関心があるとのことで手を挙げてくれたメンバーがいたのでお任せする。審問が長引居て段々雲行きが怪しくなり始める。おや?帰って来たと思いきやトランクを持って尋問官の元へ。
尋問途中3番手が呼ばれる。Hankさんにお願いした。何と尋問官と歓談して直ぐに戻って来る。自由行動の日を尋問官は気にしているみたいだ。
2番手メンバーが帰って来た時に「先生ごめんなさい」の言葉が来る。「えっ???」再度尋問官に呼び出しをくう。
タッブーレ先生のグループは、ラーマッラーで衝突事件が起きパレスティナ人が死亡した日(11月2日自由行動の日)に、催涙ガスを浴びにラーマッラーに遊びに行っている。そのグループを尋問から守らなければいけないので、この事だけは伏せておき「白を切る」覚悟を決める。
「お前は何故先程アラビア語を教えていると言わなかったのか」
さあ、詰問が始まりました!!最後の質問は「仏教徒達が何故ユダヤ教やキリスト教の聖地に来るのだ?仏教とどんなコネクションがあるのだ?」さあ、皆さんだたら何と答えますか(笑い)
11月 4日(日)トルコ航空TK052便,02:00イスタンブール発19:40成田着
11月4日(10日目)私的感想追記
あれ、もう日本に帰国しちゃった。
修学旅行で一番肝心なのは「枕投げ」と「宴会」
何が想い出に残ったか?答えは「パレスティナはワインが旨い‼」
ベツレヘムの聖誕教会の前の広場にレストランが3軒あり、その内2軒を制覇。尤も3軒目は、昼も夜も全く客がいないガラガラの店で、他の2軒の混雑振りと対象的で、流石に「パレスチティナにお金を落とす」と決めている我々も二の足を踏んでしまった。さて2軒とも大いに飲み食いして2000円強はとてもリーズナブル❗であった。
さてこの広場には、二代目正統カリフであるオマル・ブン・アルハッターブ由来のモスクはあるし、酒を外で飲めないのか?と思いきや、レストランでアルコールは飲めるし(近くの酒屋から買って来るのは、ちょっと笑えるが、合理的かつ値段も酒屋と大して変わらない)ホテルへと続く道にはスーク(市場)が展開している等で、何とも言えない「ファウダー」(混沌)が心地良い‼
ついでに宿泊しているホテルのカフェとレストランの名も「ファウダー」なので、とても洒落たネーミングに到着した時に「ヒネリ」のセンスに感嘆の声を上げた‼
料理長がフランスに行って居ない為、ガイドブックに紹介されているディナーを食べられないかと思っていたが、滞在最終日に間に合い、その料理(3,600円)を堪能したのは幸運であった‼
エルサレムよりベツレヘム着が好き、と「タッブーレ先生」が言っていたが、確かにアラブの混沌は居心地が良いかもしれない。